HONDAと独自性

■HONDAと独自性

こんばんは。
シャンプーソムリエ こと関川忍です。

マン島オートバイレースをご存知でしょうか?
それは、世界中のライダーが恋いこがれるオートバイレースの聖地とも言われる所です。

このレースの当時の覇者は当時はMVアグスタ。
様々な記録を保持していました。

当時、ホンダはオートバイレースどころではない状態。
おまけに、経営危機!

そんな時期、ホンダ創業者本田宗一郎氏は
マン島レースを制すると宣言。

そこから、世界のホンダの歩みが始まります。
皆さんご存知の独自性あふれるホンダスピリットがここで育ち始めます。

しかし、チャレンジする側は当然、苦労するものです。
そう、世界の壁は厚かったのですね~。

そこで、様々なアイディアが社内に生まれ、そのアイディアとともに人材が育ち始めていきます。
1年目惨敗、2年目6位。

ここではまだまだ、世界には通用しません。

そのため、世界を経験するためにホンダチームはマン島以外の、世界のレースにも出場し経験を積み、世界を肌で感じ始めていました。

経験とは様々な事に気づかせてくれるものです。

しかし、3年目・・・
目標であった覇者MVが突如世界GPから撤退を宣言します。

その引退宣言は
「我々MVチームはGPから引退するがもし我々が樹立した記録を破る者が現れた時は、再びモーターサイクルレース界にカムバックし、それを更新するだろう」

この宣言にたいして、ホンダチームはMVの記録を全部破り、再びMVをレース界に呼び戻すことに燃えます。

しかし、当時改良を重ね徐々に世界に通用し始めた2バルブエンジンが、限界にきてしまいました。
レース中に壊れ事故を引き起こしてしまったのです。

アイディアの集結がここで、木っ端みじんに砕かれます。
マン島レースまで残す所1ヶ月。

通常であればこの短期間で新型エンジンなんて開発は不可能です。

暗中模索の中、レース界に参入した当時使用していた4バルブエンジンに2バルブエンジン開発で得たノウハウを移植するという一点にアイディアを集結し新型エンジンを作り上げる事にチャレンジします。

そして、このエンジンがホンダが日本の底力を世界に見せつける事になるのです。
なんと、1位から5位までホンダ勢で占めた圧勝をあげたのです。

さらに、覇者MVの記録を125CCクラスでは3分以上も縮め、250ccクラスでも6分近くも縮め、ラップレコードも塗り替えてしまうという快挙を成し遂げたのです。

そして、イギリスの新聞デイリーミラー紙に次のように紹介されました。

This is what the British firm’s works director said:
“When we stripped the machine, frankly, it was so good it frightened us.”
“It was made like a watch and it wasn’t a copy of anything.”
“It was the product of original thinking and very good thinking.”
(Daily Mirror, Friday, June 23, 1961)

「私たちがマシンを見たときには、率直にいうと非常にいいものだった、したがって我々は脅威を覚えた」
「それは時計のように精巧で、そしてそれはコピーのようなものではなかった。」
「それは、独自に、そしてよく考えられたマシンだった」

(1961/2/23(金) デイリーミラー)

・・・と。

最後にこのレースに寄せた本田宗一郎氏の言葉をご紹介します。

「私がオートバイを始めてから、持ち続けていた夢それは日本人の独創により造られたマシンで優勝することであった。このレースは選手が外国人であるとか日本人であるとかは問題外である。私がこのレースに出場しようという動機は、敗戦直後、古橋が水泳で優勝、世の中をホッとした気分にさせた。そこで私は体力でなく頭脳で勝ったなら、世界のどこへ行っても日本人としてのプライドを持ち、正々堂々と胸を張れる、それにはオートバイで勝ちたいと念願した。その夢を果たしたわけだ。私が昭和29年にTTレースを視察したときは、当時の日本ではまったく考えられないほどヨーロッパのレーシングマシンは素晴らしかった。それは、タイヤ・プラグ・電装等二次部品に到るまで全てそのギャップをうめるには研究以外にないと思い研究を積み重ねて今日まできた。TTレースの優勝は前の記録を破ってこそ優勝の値打ちがあるのであって、この勝利は本田技研の勝利ではなく、日本の皆さんに、ともどもに喜んで頂き希望を与えたものだと深く感謝するものである」

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